凍える社 前編

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 細田みさきにとって、夜は常に短く遠いものだった。
 いつからこういうものであったのか彼女は覚えていない。ただ、慌ただしく情を交わす
ほんのわずかな刹那だけが、細田の中から一人の女を引きずりだすのだ。
 怜悧な、ほとんど冷淡といっていい瞳が、激情にまかせた男の狼藉で淡くうるみだす。
 オフィスでは近寄りがたい鋭さをたたえるその瞳に拒絶の色はない。
 典型的なOL風のブラウスの下で、意外なほど着痩せする細身の躯がしっとり汗ばみ、
たまらなく熟しきった色香を放ちだしていた。飾り気なく、それでいて隙もないシャープ
な服合わせは、彼女のスタイルである以上に相手の男が望んだものだ。
「‥‥」
「‥‥‥‥」
 ひっきりなしの吐息と口づけ以外に会話はない。
 ラブホテル特有の雰囲気が、2人をせわしなく駆りたてていく。
 もつれこんだ部屋の扉を閉めるのさえもどかしげに、男の手はほんのわずかのロスさえ
惜しんでコートを脱がしブラウスの合わせ目から這い入ってくる。清潔感のある男の手に
刻まれた年輪の兆しが、細田みさきの肌をざらりと心地よく昂ぶらせていく。
 からみあい、抱きすくめた隙を捉えてみさきの唇が長々と奪われた。
 吐息をあまさず吸い取られるようなディープキス。あごに指先をかけられてつままれ、
うわむいた喉の奥へ、男の唾液がどろりと悩ましく流れこんでいく。
「ンッ‥‥ンンッ」
 コリコリっと乳首をつままれ、疚しい情欲にとろけた瞳でみさきはブラウスの胸に浮き
上がった男の手を見つめていた。後ろに回す手を男の腰に絡ませ、不自由な仕草でパンツ
のファスナーに掌をあてがう。いきりたつ男性のこわばりに指を沿え、服の上から擦った。
低くくぐもった呻きを上げ、男がみさきのブラウスとブラジャーを剥ぎ取っていく。
 桜色にゆだった肌がむきだしになり、濃密な空気をさらに揺らめかせた。
 男がいじったのだろう、照明がすっと落ち、ラブホテル特有の淫靡な空気がただよった。
顔をシーツに埋め、うつぶせになったみさきは上半身をベットにこすりつけて片膝を立て
くんと腰を高く掲げる。犬のように四つんばいのその体勢へ背後からのしかかってきた男
の強い匂いに、彼女はくらりと眩暈を覚えた。
 浅ましい自らの姿勢。
 まるで凌辱でもされるかのように半脱ぎにさせられ、あらわにさらされた乳房や双臀を
男がまさぐり、卑猥な手つきで揉みほぐしていく。熱くたぎり、とろりと太ももに滴った
しずくを舌で掬い取られると、羞かしさと快感の板ばさみになってみさきのカラダはぶる
ぶる引き攣った。
 たゆたゆと乳房をわしづかみで蹂躙されながら、男の顔が恥ずかしい谷間へと埋まって
いくのを、みさきは押しとどめることができない。じかに吐息をふきかけられ、ビクッと
震える充血した肉芽にコリっと歯を押し当てられて、ベットのあらぬ方に顔をよじらせた
ままはしたないハスキーな喘ぎがあふれてしまう。
「ン。やッ、やァァ」
「嫌か」
 ホテルをくぐってから初めての会話がそれだった。
 一瞬逃げるように腰を上ずらせたみさきだが、すぐに鼻先で濡れた蜜壷をくすぐられ、
今度こそじかに進入してきた男の舌先にわれを忘れて感じきってしまう。ビチャビチャと
いう猥褻な水音と、すすり泣くような悦びの声と。
「下さいと言え。言うまでやらんぞ、俺は」
「‥‥やぁぁ、もっと‥‥して‥‥」
 たまらずみさきの口をつくのは、あまりに浅ましい、嬌声そのものの舌足らずな叫び。
ろくに前儀もしないうちからてらてらと妖しく輝いていたソコは今や物欲しげにひくつき、
男の舌づかいと指に翻弄されて腰全体がグラインドしていた。
 顔全体を変質的に濡らした男が、ぎらつく目で存分に彼女の痴態を楽しむ。
 30過ぎた女はダメだなどと、いったい誰が口にしたのか。現実はむしろ逆、心にくい
ばかりのこの反応といい、嫌がりつつ深みに誘いこむ仕草の一つ一つといい、男性の味を
思いしった躯は、しっかり使いこまれた裸身は、匂いたつばかりに熟した甘さをたたえて
いるものなのだ。
 日頃の冷静さのギャップとあいまって、みさきの媚態は男を興奮させるにあまりある。
それまで立って責めていた男がベットにあがってくるのを知り、彼女の瞳が情欲に濡れた。
ベルトのバックルを鳴らしてパンツを下ろし、ブリーフも脱ぎ、のしかかった男の凶悪な
モノが、にちりと狭隘な回廊にあてがわれる。
 しらじらと艶をたたえた尻肉をぐっとつかまれ、割り裂かれて、みさきは小さく呻く。
我慢できない。今すぐ、それで、私をみたして欲し‥‥
 無言のまま、一息で男は根元まで怒張を肉の洞まで深々と突き込んでいた。
 パァンと音立てて肉と肉がからまりあい、愛液が、粘膜が卑猥な合奏を奏でていく。
「ッは‥‥ン、ンーーーー!」
 長々と尾をひいて伸びる悲鳴は、なみなみと愉悦にみたされている。
 ずるりと引き戻す肉棒に絡みつき咥えこんで緊縮する女の構造を存分に楽しみながら、
男はベットにへばりついて快楽によじれるみさきの裸身を引きずりおこし、手首を掴んで
リズミカルに抽送をはじめた。
 繋がったままのダイレクトな刺激。あじわう肉の感触がみさきを狂わせ、鳴かせていく。
「ぅン、ンンッ、ふ‥‥」
「‥‥」
「‥‥ッはぁァン、ンァ‥‥い、いィ‥‥」
 両手首をつかまれ、上半身を前にぐいと乱暴につきだされて、みさきは完全に主導権を
男に奪われてしまっていた。スキージャンプのように胸をそらし、手綱でも握るかたちで
背中側に両手を引っぱられて、抽送のリズムもタイミングも男の言いなりのまま、自分で
コントロールできぬ凌辱の愉悦になすすべもなく舞わされていく。
 何度となく直下から裸身を突き上げられ、乳房が狂ったように揺れ弾んで汗を飛ばす。
必死になって腰をくねらせ肩をよじらせ、強烈な交わりを自分の中で咀嚼し、昇華しよう
とのたうつ。なのにわざとタイミングを外され、リズムをずらされ、奴隷じみた意地悪な
仕打ちを受けて息もつげぬまま絶頂を極めさせられていくのだ。
 情欲のうねりに濡れた瞳を見開き、最後の一呼吸まで吐息を出しきった次の瞬間さらに
ズンと下腹部を抉られて悶絶しそうになる。ペースを乱され、欲しくて欲しくて打ちつけ
る腰からわざと怒張を抜き取られてワレメのとば口を攪拌されていく。
「はァ、ン、駄目‥‥そこは、そこっ、くぅぅ‥‥‥‥んンッッ」
 不自由な躯をたわめ、息も絶え絶えに弾ませて、みさきは犯されつくす下腹部をキュウ
としぼりながら脈絡ない歓喜の呻きをだらだらとあふれさせる。
 めちゃくちゃにされているという惨めな実感。
 なにもかも男に捧げつくしている、そんな錯覚さえもがみさきを捕らえてぴぃんと背を
弓なりにのけぞらせ、足の指先にいたるまで痙攣じみた甘い衝撃で突っ張らせてしまう。
快感の波に乗せ上げられ、追いこまれ、みるみるエクスタシーの頂点へ達しきった裸身が
さらに苦しいはるか高みへ目指して突き上げられていくのだ。
 ケモノじみた喘ぎが、交合の肉の響きをかっきけすほどに室内にあふれかえっていた。
もう駄目だと、これ以上は無理だと、そう思った一瞬後にはその先の悦びまで貪らされて
意識を真っ白にそめあげ、ガクガクとひときわ激しく身をゆすぶらせる。
 くるおしい渦を巻いて引きずりこむ彼女の中の蠕動に、男も限界まで達していた。我慢
を重ねた砲身が粘膜に咥えこまれてたわみ、激しく射ちだされていく。
「グゥッッ」
「うぁ‥‥あは‥‥ン」
 男の咆哮に交じって、みさきの声は満足に溶けきっていた。ビュク、ビュクッと年相応
の衰えを知らぬ白濁が彼女の底を叩きつけ、やがて、ずるりと引き抜かれていく。濃厚な
精のあまりは、柔らかに丸みを帯びたお尻の上にそそがれる。
 がくんと掲げていた腰がくずおれ、みさきのカラダが張力を失ってベットに倒れこむ。
 カラダの奥に注がれた精液が熱くねばついているのを、ぼんやりみさきは実感していた。
コンドームを嫌がる男は彼女にピルを強要している。そのことに不満はない。ない‥‥の
だと、思う。みさきも男も、お互い会社での立場も、力関係をよく理解している。
 男にさしだされたティッシュを受け取り、細田みさきは躯から白濁をふきとっていった。
 所有の喜びはほんの刹那。短いからこそ狂おしい。
 後ろから抱きすくめる男の腕にもたれ、昂ぶった細田の胸が上下に波打っている。
乱れた吐息を零しつつ、それでも、ほんの2分かそこら、男は必ず女のカラダを抱擁する
ことを忘れなかった。一分一秒をむだにしない男の、それは気配りでも配慮でも余韻でも
なく、彼一流のテクニックなのだと内心では分かっている。
 悪い男の手だった。
 細田を溺れさせ、その瞳をくらませ、彼女を虜にして離さない、したたかな男の手だ。
まるで人ごとのように彼にしがみつき、目を閉じてつかのまの余韻に溺れようと努力した。
このひと時だけが、男を敬称抜きで呼ぶことのできるわずかな時間だと。対等のつきあい
として所有できる偽りの幸福だと。
「ねぇ‥‥和明」
「どうした?」
 名前を口にすると、男はじろりと細田の顔をのぞきこんできた。そこに彼女がもっとも
欲している情に溺れた甘やかな気配はない。ひとときの秘められた関係。分かってはいて
も、かけるべき言葉もないまま、じわりと諦めが心をひたす。
 何を言いたかったのか、私は、この男に何を言って欲しかったのか‥‥
「いいえ。なんでもないの」
「‥‥そうか」
 つなぎとめきれないことはわかっている。ひと時の逢瀬であるだけに、なおさら。
 男の名前は財前和明(ざいぜん かずあき)。
 同じ社の営業部の部長である財前は、かっての上司だった。妻子を持つ50代の。


                   ☆


 長いこと、細田みさきは傍観者としての人生を送ってきた。
 ある時から、彼女はそういう視線を持つようになっていた。当事者であることを避け、
アドバイスや助言を脇から与える。やがて周囲から頼られるようになり、その思いに応え
たくて他人の生活や葛藤をさらに丁寧に観察するようになっていった。
 小学校から中学へ、やがて高校へ。
 どんな集団においても、彼女はいつも頼れる助言者として信頼され、感謝されてきた。
それは彼女が優れているということではない。本当はむしろ、物事を当事者的に捉えられ
ない弱さの裏返しだったのだ。
 そう気づいたのは、OLを始めてしばらく立ってからだった。

 密着した背中にあたっている男性の締まった胸板がみさきを安心させていた。いつもと
同じ感触、同じぬくもりだ。財前和明とはすでに他界したみさきの父親ほども年が離れて
いる。あるいは、だから、恋愛ではないのかもしれない。甘えられる相手なのだろうか。
いびつな親子関係のように感じる時もある。
 財前との逢瀬はつねにせわしなく、時間に追い立てられるがままの獣の交わりだった。
泊まっていくことのできぬもどかしさ。手早く服を身にまとう姿を見上げるばかり。
 だが、今夜はいつになく安らいだ腕が、じっとみさきを抱き寄せている。
 首をめぐらせ、和明の横顔を見あげた。年季の入った皺が眉間に刻まれ、職場における
彼の辣腕ぶりを暗に示していた。鼻が高く、日本人離れして彫りの深い面立ちは、若い頃
さぞモテたのだろうと思う。
 黙って見上げるみさきに、ん? と問いかけるかのように男の瞳が動いた。あわてて、
ちろりと瞳の底で揺らいだ嫉妬心を押し隠す。所詮は不倫なのだ。言ってみようか。でも、
やっぱり、やめようか。わけもなくためらい、しり込み、やはり思いなおして細田は財前
に訊ねかける。
「クリスマス、近いよね」
 ただの時候のあいさつではない。なかばあきらめと自虐を言外に含ませた台詞。返事は
期待してはいなかった。
 なのに。
「‥‥‥‥そうだな。どうしたんだ、急に」
「え」
 軽く首をかしげた財前の返事にかえって彼女は焦った。話のつぎ穂を見失い、言葉が宙
に浮く。突き放してほしかったはずが、心が揺らぐ。何を言ったらいいのだろう。
「その、どんな予定なの?」
 だしぬけに口をついた質問の責めるような響きに、思わずビクリと肩が震えた。
 違う、そんなことは聞きたくなんかない。本当はその逆なのだ。クリスマスに逢うこと
ができない、その事実を自分に言い聞かせ、あきらめたくてわざと切り出したはずなのに。
まるでこれじゃ、私が、未練を感じているみたいに聞こえはしないだろうか‥‥?
 財前和明は典型的な愛妻家だった。
 かって職場の同僚たちとともに彼の家にお邪魔したことがあるが、その時の財前は職場
での厳しい顔と打って変わって気をゆるめ、だらりとくつろいでいた。少しだらしなくて
困った旦那様とマメにそのお世話をする奥様といった睦まじいやりとりに、古き良き日本
的の縮図を見せつけられた思いがしたものだ。あれは何年前のことだっただろう。
 みさきが口をはさんだ程度で、財前のクリスマスの予定がくつがえるはずなどないのだ。
 案の定、冷ややかな光が彼の瞳にともり、細田は唇をかんでうつむく。
 なにより今の関係が壊れることを、彼女は恐れていた。不倫の危うさを知っているから
こそ、触れるべきではない話題だった。独占欲を見せてはいけない。彼を束縛してはなら
ない。いつ、関係の終焉を告げられるか‥‥それがまだ先にせよ近いにせよ、少なくとも
今は、細田みさきは財前和明を失いたくなかった。
 一人きりで過ごす夜は、凍えるほどに辛い。
 会社でいかに冷ややかに仕事人間を装ってみても、それは泣きたいほどの実感だった。
彼の存在がかろうじてバランスを与えてくれている。すがっていられるひと時があるから
立っていられるのだ。表立って人に言えなくとも、身体だけの関係であるとしても、この
不安定な今が精一杯だと、それだけで幸福なのだと、細田みさきは悟っている。
「さぁな。仕事の進捗がはかばかしくなければ残業かもな」
「そう‥‥」
 ややあって呟いた財前和明の淡々とした言葉に、みさきはほっと息を吐きだした。
 彼女は変化を恐れていた。避けようがないと知っているがゆえに。
 クリスマスという季節は、年に一度のイベントは、日常をくつがえす。祝祭は、つねに
みさきを不安にさせ、落ち着かなくさせる。
 許されざる関係を結んだものにとって、この時期は凍てつくようだとみさきは思った。
 なまじ、すがりつく温もりを知ってしまって、心が弱くなったのだ。

 マンションに戻ってきた時には、すでに午前を回っていた。声をかける者も迎える者も
ない生活だ。防犯対策でつけっ放しのリビングの照明が、わびしく室内を照らしている。
 きちんと靴をそろえ、脱いだ服をハンガーに吊るしあるいはたたみ、下着はとりかえて
洗濯機を回し、コーヒーメーカーをセットした。一人きりだからこそ、ともすれば弱気に
なる自分を支えるため几帳面に生活を律していかないといけない。
 TVをつけたが、深夜番組から流れだしたクリスマスのBGMと俗悪な若手芸人の企画
に顔をしかめてスイッチを切った。しんとした室内にコーヒーメーカーの音が響いている。
 つらい、と思うには、すでにこの生活を重ねすぎていた。
 今までだって彼氏がいなかったわけではない。数多くの男性とつきあってきたし、身を
焦がす恋だってしてきたはずなのだ。けれど‥‥
 清潔すぎる部屋。女性らしい生活感をあまり感じさせないインテリア。
 自分自身の日常にさえ距離をおいて接してる‥‥最後につきあっていた彼と喧嘩をした
時に、そうなじられたことがあった。どうして、人ごとのように俺たちの話をするのかと。
なんで感情を殺すのかと。
 他人のことは分かる。分かったつもりで見ていられる。それは優越感にも似た感覚だ。
当事者に見えていないものを的確に把握し、分析する。仕事でも、この性格が生かされて
いる。だと、いうのに。
 ブザーの音に立ち上がり、真っ白なカップにコーヒーを注いだ。淹れたての香りが鼻を
くすぐる。テーブルに戻り、ミルクだけをかきまぜると黙って啜った。
 沈黙が彼女を取り巻いていた。
 目頭をじっと押さえる。鼻先を、淹れたてのコーヒーの湯気がかすめていく。
 泣くことができたらいいのに、と思った。
 

                   ☆


 またたくまに、イブの当日はやってきた。細田が憂鬱に思うその朝が。
 街並の飾りつけも喧騒もクリスマスムードに染まり、道行く人々もどこか浮かれていた。
恋人のことを思ってか、家族のことを思ってか。あるいは、親からもらうプレゼントの事
を思って、あんなにもランドセルを弾ませるのか。
 満員電車に揺られるながら、細田は普段以上に気を張りつめていた。特別な日だと意識
しないように務める。特別なことなど何も起こらないのだ。寡黙な、石のように、黙々と
日常の業務をこなすだけだ。
 ‥‥だが、むろん、そうはいかなかった。

 浮ついたイブの空気はしっかり社内にも伝播していた。
 盛大に今夜の予定をさえずりながらロッカー室に入ってきた年下のOLたちが、細田の
一瞥に首をすくめてそそくさと通り過ぎる。普段なら顔を曇らせる彼女たちの顔に、薄く
浮かんだ侮りの色を細田みさきは見逃さなかった。
 くすぶる胸の苛立ちは、仕事を始めるとさらに色濃くなっていった。
 オフィスの空気は浮わつき、数人のOLは仕事そっちのけで時計をちらちら眺めている。
その中に、昼休みが終わったにもかかわらず呆けている麻生玲子の表情に気づいて細田は
憂鬱な気分になった。彼女には先月分の販売推移データのグラフ化を頼んでおいたはずだ。
かなりやっかいな仕事のはずなのだが、さっきから心ここにあらずといった表情でキーボ
ードを叩く玲子は、みるからに作業に身が入っていないのだ。
 他のOLはまだしも、麻生玲子にまかせた仕事は明日までに必要なものだった。玲子は
決して駄目なOLではない。要領のよさは鼻につきすぎるが、必要以上に男性社員に媚を
売ることもなく、今年の新入OLの中では飲み込みも早い。それだけに、彼女を信頼して
仕事をまかせた自分にまで苛立ちの矛先は向いていく。
 5時近くになってもそわそわした状態で終わる気配もない玲子にしびれをきらし、書類
を提出するついでに彼女の仕上がりを後ろからのぞきこんだ細田は目を疑った。
 どうしようもない数値の羅列。
 彼女がインプットしているのは、バグと化したでたらめなグラフだった。

「どういうつもりなの?」
 抑えようのない不快感が口から鋭い語気となってあふれてしまう。その細田を見つめる
麻生は、どこか納得のいかない表情だった。少なくとも他のOLよりは真面目で、だから
オフィスで叱るのはしのびなく給湯室へとうながしたのに、一体何が不満だというのか。
「まったく。若い子は結局、こうなのね」
 たまりにたまった憤懣はどうしようもないステロタイプの叱責になっていた。別にイブ
で浮かれている女性を責めたところで仕方がない。もっと言うべき相手がいるはずなのに、
一度口をついた苛立ちはすべて目の前の彼女に向いてしまう。
 と、その時。
 携帯が鳴り響いたと思う間もなく、それまで殊勝にうなだれていた玲子は猛然と携帯を
引っぱりだし、電話口に向かって滔々と怒鳴りはじめたのだ。
 あっけにとられ、細田はその一部始終を眺めていた。
 まるで激情そのものの玲子の応答。今なにをしているか、それさえ忘れてしまうほどの
やりとりに、これまでの怒りさえ霧散していく。
 そういうものなのか。
 冷ややかな反動が細田みさきの心の中をみたしていった。単に彼女に期待しすぎていた
‥‥それだけのことなのか。信頼に信頼が返ってこないというのは、こういうことなのか。
あるいは、それほどの激情が人を動かすということも、あるのだろうか。
 真っ白になった頭の中は、完全に止まっていた。
 電話を切った玲子がはっと細田の顔色に気づき、さっきとは比較しようのないほど身を
縮めて立っている。
 この子を許すべきか許さないのか。傍観者として彼女を切り捨てるのか、それとも。
 じわりと、言いようのない疲労が肩にのしかかる。
「いいわ」
 細田みさきは玲子をねめつけて呟いた。
「何しているの。もう仕事は上がりなさい。それでいいから」



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