海のように凪のように 前編

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 そろそろ帰ってくる時間だと考えながら夕食のけんちん汁を作り終え、料理を盛りつけ
ていると玄関のチャイムがなった。濡れた手をエプロンでぬぐい、北原佐由理は玄関へと
向かう。
「ただいま、佐由理。遅くなってすまなかったね」
「お帰りなさい、健一さん」
 夫の健一は、出迎えた妻に優しいキスをくれた。
 新婚時代はとうに過ぎたが、健一の気くばりはいつも細やかだ。2人の知り合ったOL
時代から、健一は女心をよく察する男性で、周囲に女性の姿が絶えなかった。よく妻の座
を射止められたなと、佐由理はときおり不思議に思う。
 世間は不況だが、それを実感として強く感じたことはない。家計簿で苦しんだこともな
い。月に一度はお洒落をし、グレードの高い店で外食を楽しみもする。健一と佐由理は、
いまどき珍しいおしどり夫婦だった。
「けんちん汁作ってみたの。もういい時期ですものね」
「ほぅ、さすが。ちょうど食べたいと思っていた頃だったんだ」
 ほほえんで伝えると、スーツを脱ぎながら夫は嬉しそうにうなった。彼の好物なのだ。
 あるいは、と佐由理は思う。
 おっとりマイペースな彼女の中に、深く広いものを健一が見いだしたのかもしれない。
つきあいだした頃から、彼との恋は穏やかで柔らかい感触のものだった。ゆるやかに交わ
りあい、彼が心からくつろげるように尽くす。それはたしかに佐由理の性格でもある。
「どうでした、今日は?」
「うん、まぁまぁ、だね。特に問題とかはなし」
 Yシャツの胸元をくつろげ、健一が寝室から戻ってくる。手にしたビデオテープの中身
は前日深夜に撮りだめた欧州プレミアムリーグの試合だ。ニュース代わりにサッカー観戦
しながら食事をとるのが、このごろの2人の慣わしだった。
「海外出張の件、緒方が行くことになったよ。ほら、一度ウチで酔いつぶれた彼な」
「まぁ、そうだったの」
 夫婦の場で、夫は仕事のことを深くは話さない。プライベートと仕事はきっちり分ける。
それが健一のやり方だ。物足りなさもあるが、近所での小さな出来事や町内会でのぐちを
聞いてくれる夫などそうそういないのは、佐由理も知っている。
 健一は33、佐由理はじき28だ。年の差が、2人を睦まじくさせるところもあるだろう。
これで子供がいれば‥‥でも、結婚して3年。まだ早すぎる気もする。
「佐由理の方は、なんか変わったことがあったかい」
 急に健一に尋ねられ、彼女は一瞬ためらった。
「そうね、特にないわ。平穏そのもの」
「そうか‥‥おっしゃ!」
 夫のひいきにしているチームが得点をいれ、彼が子供のように歓声を上げる。その様子
を見ながらその場は流し、食事が終わりかけたところで佐由理は口にした。
「あの人から‥‥畑中さんから、また、電話が来ていたわ」
「お、マジでか。それ早く言ってくれよ」
「うん」
 満腹になった健一は妻の微妙な温度差に気づかず、いそいそ立ち上がった。携帯を取り
出し、書斎へ向かいながら喋りはじめる。佐由理は洗い物を始めた。
 彼女とて分かっていはいた。こんな幸せな生活なのに、ささいな不満にまで目くじらを
立てていたらバチがあたってしまうだろう。それでも、佐由理は彼らからの電話が好きで
はなかった。畑中という大学時代の悪友と‥‥その悪友の彼女とが。
「佐由理」
「あ‥‥待って」
 いつのまに電話を切ったのか、健一の手がふわりと佐由理の背を抱き寄せた。シンクに
そっとお皿を起き、軽くイヤイヤをしてみせる。それが、いつもの夫婦の営みの合図だ。
たいてい、求めてくるのは夫の方からだった。佐由理がこばむことはほとんどない。
 電話のことを頭から追いはらい、彼女は夫に擦りよった。

                   ☆

 畑中塁(はたなか るい)と安藤美月。この2人と北原夫婦の関係はいささか複雑だ。
 大学に入学したての頃、佐由理は新歓の一ヶ月だけ遊び系のサークルに顔を出していた。
そこのOBが北原健一で、彼女と同じ新入生だったのが畑中塁だ。畑中がつきあっている
彼女の安藤美月は、佐由理からみて2つ年下の後輩にあたる。
 会社の慰安旅行で隣りあった健一と佐由理は、同じ大学出身で同じサークルだった時期
があると知り、急速に親しくなった。OLの気苦労をそう感じることもなくすんなり結婚
し、2年近くは幸せな日々が続いていたのだ。
 一年前に、音信不通だった畑中塁が夫を探しあて、電話をかけてくるまでは。
 27才とは到底思えぬ、だらしない大学生めいた服装に、苦労の欠片も刻まれてない童顔。
手のかかる後輩だよと笑うスーツ姿の夫と再会した畑中のツーショットは、なんだか悪夢
めいて佐由理の目に映った。
 畑中は、いかにも男を魅きつけそうな目尻の細い女をつれていた。安藤美月と名乗る女
の視線は彼氏でなく夫にばかり投げかけられる。大学卒業後、5年近くも定職をもたない
畑中は、ホステスをする美月の収入に頼りつつ生活していたのだ。
「なんだか心配だわ。収入も安定しない人なんでしょう?」
「はは、肩書きとかそういうのは気にすることないよ。ちょっとふらふらしてる奴だけど、
あれで大学時代は真面目な後輩だった。要領が悪いだけさ」
「でも、健一さん」
「金をせびられるわけでもない。気の会う遊び仲間だよ」
 気がかりな佐由理をよそに、夫は同じ大学、同じサークル出身の後輩にいたく興味をも
ったようだった。付き合ってほしくないと訴えても、笑うばかりでとりあわない。
 そもそも、脚本家を目指すフリーターというのは肩書きなのだろうか。
 悪い虫。畑中塁を、佐由理はそう解釈した。実際、月に一・二度は彼らから電話があり、
夫はいそいそ遊びに出かけては夜遅くまで帰ってこなくなる。当然そのかたわらには安藤
美月も、あの媚を含んだ表情で夫を見つめているはずだった。
 どことなく心がざわつく。女の勘が訴えかけてくる。何かがおかしい。
 それは、三年近く籍をいれ、同衾してきた佐由理だから分かることだった。彼らと遊び
に行く時の夫の表情は、妻である佐由理でさえそう見ることのない楽しげな顔なのだ。
 だから、今日の電話も取り次ぎたくはなかった。
 できることなら。


「佐由理」
「ん、んンッ」
 キスを首筋に降らせながら、健一が彼女のカラダをエプロンの上からなぞり、指を這わ
せていく。ほとんどの意識を彼にむけながら、洗い物を押しやった彼女は後ろを向いた。
健一に唇を重ね、何度もついばむ。
 佐由理と健一は間断ないキスを続けながら、もつれるように寝室へ向かった。
 うっすらした興奮と陶酔で、躯の芯がじわりと静かにうるおっていく。
「ねぇあなた、先にシャワーを」
「いまさら。お互いイヤな匂いなんかないだろ」
 ニッと笑う健一が、佐由理の胸元に手をかけた。柔らかい愛撫で妻の躯をほぐしながら
暖かなニット地を脱がせ、慣れた手つきでスカートに手をかける。ベットの中で、健一は
妻を支配するのを好んだ。服を脱がせるのも、愛撫するのも、すべて自分でやりがたる。
いつか佐由理が積極的に動いたとき、夫はとまどい、次に不快げな顔をした。それ以来、
彼女は夫のなすがままに、淡い快楽を大事に受け取るようにしている。
「ファ‥‥あ、ンっ」
「‥‥」
 秘めた部分を指でまさぐられ、佐由理は小さく軽く喘ぎ声をたてた。昂ぶっていく妻の
動向をたしかめながら、夫は息を弾ませてクレヴァスをまさぐる手を強めていく。
「あぁン」
 クリトリスがひんやりした外気にさらけだされ、佐由理は恥じらいの声を上げた。
 シャツを脱ぎ捨てた夫の背にギュッとしがみつく。瀟洒で洗練された外見のイメージに
似合わぬ、たくましい男性の筋肉がいとおしい。直接的な愛撫以上に、抱きしめられる力
強さが彼女を心地よくするのだ。
「んっ、ん‥‥ァ」
「く‥‥」
 乳房をぎゅっと揉まれ、彼女はのびやかに身悶えた。うすく汗が浮かぶ。
 夫の好む夜の営みは、どちらかといえば淡白なものだ。変わった性癖や好みがあるわけ
でもない、愛情をたしかめるためのセックス。とはいえ、快感だって充分ある。
 いつものようにカラダ全体を指先がなめつくし、佐由理の肌が桜色に色づいたところで
彼が脈打つ男性自身を下腹部にあてがってきた。ひっそり湿った下腹の柔毛(にこげ)を
かきわけるように撫ぜ、ぐっと体重をかけて健一が侵入してくる。
 はぜるような快楽の波に包まれ、彼女は声を絞った。
「んっ、あン、ンンッ」
 しのびやかに喘ぎをもらし、ギュッと深くからわき上がる快感をこらえる。腰をよじり、
シーツに胸をすりつけ、悠々とした律動に合わせて自らも腰を揺する。小さな火花が散る
ように、女の性がゆるやかに理性を押し流していく。肌が過敏になり、ちりちりしたむず
がゆさが時間をかけて全身を覆っていく。
 その連鎖が頂点に達する前に、夫のピッチが荒くなり、ビクビクッと熱い濁流が佐由理
の内側へとめどなく吐き出されていた。
「んン‥‥」
 ものたりないとは考えず、佐由理は夫の脈動を、一体となった下半身の感触を味わって
いた。行為の後、繋がったまま優しく夫の腕が彼女の裸身をなぞり、たしかめていく。
 繊細な手つきは、くすぶる佐由理の炎を興奮させ、かすかに酔わせた。


 暖かく広大な胸にすがりついて鼓動を聞いていると、健一はおもむろに切り出した。
「さっきの電話、な」
 とたんに緊張するカラダを、健一に悟られないよう佐由理は身構える。
「今週末、釣りに行かないかと誘われたんだ。たまには、佐由理もいかないか」
「私はいいわ」
「いつも、お前はそう言うな」
「そうかしら」
 交わし慣れたいつもの会話。夫とて真剣に誘っているわけではない。うすうす佐由理の
思いを感じとって、言い訳を用意しているのだ。
 どこか遠くに行ってしまいそうな健一の裸の胸を、彼女はきつく抱きしめた。
 妻にできることは、ただ帰りを待つことだけだ。夫を信じて。

                   ☆

「じゃ週末は、朝から出かける感じだから」
「いってらっしゃい、健一さん」
 コートの衿をたて玄関で一度身震いした夫が出勤していくのを、佐由理は複雑な思いで
見送った。パタンとドアを閉じ、無意識にため息をつく。
 食器を洗い、洗濯や掃除を一通りすませても、まだ10時の主婦向けバラエティが始まっ
たばかりの時間だ。しんと静かな、空漠とした室内。レース編みの講習もフルート教室も
今日はない。一週間の谷間の時間。こんな時、つくづく待つ身の辛さを思う。
 妻という時間の半分は、待つことの重みを覚えることから始まるのだ。
「‥‥不倫愛については、視聴者の皆さんも賛否両論あるでしょうが‥‥」 
 眉をひそめ、佐由理はTVに向き直った。最近はTVや雑誌でもこの手の特集が増えた。
思わず顔をしかめてしまう彼女は、感性が古いのかもしれない。
「では最初のケース、Kさんの場合です‥‥」
 リビングに頬杖をついたまま、佐由理はいつか安藤美月のことを考えはじめていた。
 佐由理より二つ若い彼女は、立ち居振るまいも化粧もずっと派手で、男好きのする媚を
ふりまいている。男の視線を浴びることに何の躊躇もない女性。女であることをどぎつく
匂わせる女性。おそらく、佐由理の一番苦手なタイプだ。
 夫は、安藤美月をどう見ているのだろう。
 親友の、後輩の恋人だろうか。それだけなのだろうか。
 夫の健一は、昔から女性と話をするのが上手だった。男だからという警戒心をみじんも
感じさせない話術を持っている。大学時代、件のサークルで見かけたときも、健一はあた
かも取りまく彼女と同性であるかのように溶け込み、女の子たちを会話で魅了していた。
 申し分のない結婚だし、申し分ない夫婦生活だと思う。夜の生活だって、淡白だけれど
回数が減ったり、夫の行為がぞんざいになった感触はない。
 ならば、波乱のない生活の中で、じわじわ心を蝕む不安は一体どこから来るのだろう。
「‥‥」
 ボーという艀の汽笛に、佐由理はぼんやりキッチンから眼下を見下ろした。
 彼女の住むマンションは川沿いにあり、時折なにやら石ころを載せたボートをひく艀が
ゆっくり海の方へ下っていくのを見ることがある。川沿いの遊歩道には枯葉がふりつもり、
小さな子供が家の前で遊んでいるのが見てとれる。
 流れる川はなにも語らない。あわだつ波も、底の淀みもすべて飲み込んで、ただ悠々と
たゆたい、いつか海へと注ぎ込まれてゆく。女という業を沈め、楚々として、貞淑として
尽くす妻のありようも、川のように沈黙をもってしかるべきなのだろうか。
 佐由理は、自分の心がざわざわ波立っているのを認めないわけにはいかなかった。

                   ☆

 佐由理の心配をよそに、健一は足繁く畑中たちと会うようになっていった。
 普段は定時に帰ってきてくれる夫が、彼と会う日は平気で午前様になる。たまの休日も、
佐由理をつれてドライブに出かける機会が減りだしていた。それとなく咎めだてると夫は
いつになくムキになり、またうろたえる。
 12月に入ってから、佐由理の心を代弁するかのようにしとしとした雨が続いた。
 夫の腕に包まれて、早朝、目を覚ます。薄闇を閉ざすカーテンのこちら側で、佐由理は
雨音をBGMにじっと彼の寝息に耳をそばだてる。ゆっくり隆起する胸。妻を抱き寄せた
まま眠ってしまったせいで、ざらざらした頬がすぐそこにある。
 思えば、私は夫のなにを知っているのだろう。
 はじめてみる生き物のように、佐由理は夫の安らかな顔をまじまじ見つめる。
 彼の告白を受け入れてから結婚まで、恋愛特有のドロドロしたやり取りはほとんどなか
った。嫉妬も、トラブルも、さしたる衝突さえなく、佐由理は当たり前のように彼のある
生活を受け入れ、そのまま夫婦生活がはじまった。
 果たして、それは良かったのだろうか?
 こうして何かあったときに、佐由里は夫をつなぎとめる強さを手にできるのだろうか。
ごうごうと佐由理の中を流れゆく思いが、ねばりつく濃い執着のごときものが、行き場を
なくして狂い乱れ、やがて心のよどみに溜まっていく。一日、一日ごとに。
「‥‥」
 夫は何も答えない。彼の寝顔は、彼女の心の問いに答えてはくれない。 
 やがて、ため息とともに静かにベットを滑りでて、佐由理は朝の支度をはじめる。

 
「悪いな、明後日の土曜日も畑中と会うんだ」
「あら」
 悪いなといいながら、健一は少しも悪びれた様子がなかった。
「このところ、少し多くないかしら。先月から数えてもう12回でしょう」
「そんな、頻繁かな」
 頭をかいて味噌汁をすする夫の姿は、妻の視線から逃げるように宙をさまよう。
「今度松代の方に美術館ができてね、それを見に行かないかと」
「たまには私も行こうかしら」
 ふと意地の悪い思いにかられ、佐由理は口走った。 
 健一が、驚いたように顔を上げる。
「‥‥お前も来るのか?」
「ええ。いけないかしら、行ったらお邪魔?」
 かすかにうろたえぎみの夫を見ながら、表情を顔に出さず佐由理は微笑んだ。
「ほんの冗談よ。その日は、忙しいから」
「なんだよ、おい」
 そうよ。行ってみよう。夫には内緒で、その日。
 思いついたばかりのアイデアは、夫の返事を耳にした今、確実な予定に変わっていた。
彼の見えない部分が、妻に隠す部分が何なのか気になるなら、自分から動いてたしかめに
行ってみればいいのだ。
 ドロリと沈殿していた感情が、ゆっくり行き場を求め、動きだしていく。


 だが、事態の展開は、佐由理の想像を超えて急だった。
 悪天候のなか夫が畑中と会いに出かけたその日の朝、着替えをすませた佐由理が自分も
出かけようとする時分に短くチャイムがなった。遠慮がちに音が響く。
「はい、どちらさまでしょう」
「あの、突然申し訳ありません。北原さんとは懇意にさせて頂いている、安藤美月です」
 唖然としてドアをあける。
 ざぁざぁ降りそそぐ冬の雨に濡れて玄関の前に立ちつくしていたのは、困惑し、佐由理
以上にうろたえた表情の安藤美月だった。



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