グラップル・フィーラー 〜凌辱の美姫〜 03 後編

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本社ビルで起きた爆発は目を覆わんばかりの規模だった。
映画と見まがう爆炎と煙。70階、会見場のあるフロアの窓が連鎖的にはじけ飛んでいく。
「お爺様っ!」
鴻神いりすの悲鳴はオーロラスクリーンに向いていた。
煙でぼやける画面の中、屈んで避難していたタウマスをフード姿の人影がさらったのだ。
間髪入れず飛びかかったガードマンたちは、ことごとく正面から胸板を貫かれて昏倒した。
‥‥血まみれの擬装手によって。
ほんの一時カメラに向いた人影が、気絶したタウマスを抱えて手首のG3をきらめかせた。
すべりでた触手がしなり、カメラに叩きつけられた。後に残るのは砂嵐のみ。

――それはまるで、自らの力を誇示し、サイバイオテック社をあざ笑うかのよう。

血の気を失い口元を覆っていた鴻神いりすの瞳が、しずかに、昏く淀みだした。
肩を震わせ、激情をこらえて淡々と呟く。
「‥‥私、行くわ」
「えっ!?」
あっけにとられた真手須智香が向きなおった時、すでにいりすはシードに手を添えていた。
「彼らは許せない。何より、お爺様には指一本触れさせない‥‥覚 醒ウェイク!」
ぶぅんと唸りを上げ、クレッセント・シードが発光する。
クッと眉をしかめる鴻神いりすは、しかし起動時のショックに耐えた。ざぁっと意識野が
同心円状に広がり、360度の視野にESC残留反応が重なっていく。半径1キロを探査
可能なシードの知覚野は、犯罪者のものと思しき特異な反応をただちに拾いだしていた。
「見つけた‥‥直通エレベーターだ。会長室に向かうつもり?」
「おじょうさまっ!!」
「えっ?」
急に真手須智香に抱きつかれ、驚いた鴻神いりすの意識が乱れた。
目を落とすと、運転席にいたはずのメイドが懸命にしがみつき、今にも車内から飛びだし
そうないりすの腰を押さえつけている。
「ダメッ、ダメですお嬢様!」
「‥‥離しなさい、智香。これだけは譲れないの」
「いいえ。その姿ではダメです。守衛に、受付嬢に見られているその姿では」
思わぬ虚をつかれ、いりすは硬直した。
そのスキに、智香が必死になって説得をはじめる。
「お嬢様が話して下さったのですよ。平良先生との会話を。PBT社令嬢の肩書をもって
犯罪に立ち向かうわけには行かないと。この国は自力救済を禁止しているんです。だから、
治安が成りたっているんです。だから白の天使は名乗り出られないんです!」
「‥‥」
「思いは分かります。でも、警察に、社内の守衛たちに、今はまかせるしか――」
――天啓が、いりすの頭をよぎっていた、
真手須のメイド服に‥‥奴隷の首輪に‥‥祖父から渡されたナイトバイザーに目を落とす。
たしかに、鴻神いりすは正面切って乗り込むわけにはいかない。
でも、それを言うなら白の天使だって、どこかに生活があり、日常があるはずなのだ。
いりすがいりすでない『別の誰か』であったなら‥‥
優しく、けれどしっかり智香のカラダを抱きよせて鴻神いりすはメイドに答えた。
「ありがとう、智香。分かったわ」
「はい」
「だから‥‥私のために服を脱いで。今すぐ」
「え゛!?」
「お願い、急いで」
形よい真手須智香の小鼻から、つぅと‥‥まぎれもない鼻血がしたたった。
唐突にメイドを襲ったのは、無上の歓喜。
歓喜はきわまって至福となり、理知的な頭をすっかり莫迦にさせていく。
場所も、緊迫した状況さえ忘れて目を上げると、そこには熱っぽく智香を凝視する瞳が。
小悪魔のようにメイドを誘い、禁断の境地にいざなっていた。
(お、お嬢様が、いりすお嬢様がこの私に脱げだなんてそんな積極的に迫ってくるはずが
ないのに密室だからってまさか公衆の面前でううん私は平気よ胸がドキドキしてあぁダメ
はしたないお嬢様のあの愛撫を思い出したらカラダがじんわり潤んできちゃ――)
「‥‥‥‥智香?」
「‥‥」
「まーてーすー?」
パチパチッと目をしばたたかせた真手須智香を、白い目で鴻神いりすがにらみつけていた。
唇には、苛立たしげな憫笑。
「一秒を争う時に限って‥‥その痴呆じみたおちゃらけ、確信犯でやってない?」
「な、何がでございましょう」
「‥‥‥‥口に出てた。あなたのヤラしい妄想全部」
「うそっ!」


                ‥‥‥‥‥‥‥‥


突然の爆破に恐慌を起こす渋滞を切り裂いて、真紅のコルベットが高架を疾駆していた。
エンジンノイズをBGMに、オープンルーフが滑らかに開いていく。
急速に激しくなった風の唸りに負けじと、いりすの私服を身に着けた・・・・・・・・・・・・真手須智香が叫ぶ。
「くれぐれもムチャをなさらないで下さい、お嬢様!!」
(分かってるわ、智香。フォロー頼むわよ)
周囲の影響を受けない指向性テレパスで返事した鴻神いりすを、真手須智香はちらと見た。
例えるなら、衣装を取り換えた今のいりすは黒の天使。
漆黒のメイド服に包まれた無垢なる天使を、従属の首輪とシードが妖しく彩っていた。
ゾクリと智香の背を疾け下ったのは怖れか歓喜か。
バイザーの透過をオフにして青みがかった瞳を隠し、いりすは頷いた。
「行くわ‥‥開 放オープン!」
むきだしとなったコルベットのシート直上で閃光がはじけた。
能力を解放されたクレッセント・シードが、使い手と一体化すべく無数の微細な擬装手を
裸身の皮下深くもぐりこませてゆく。肉体とシードと世界の融和。まったき 三位一体 ホーリートリニティの
極限に、闇色の黒衣はつかのま打ち震えた。
ぱぁぁっと宙を舞う光輝のフェザーが風に流され、散っていく。
祝福するようにまとわりつく光の残像はいりすの踵で弾け、濡れ羽色の大翼をあやなした。
この瞬間、鴻神いりすは己が名を、己が属性を忘れた。
ここにいるのは黒き天使。闇を認めず、影を許さず、それゆえなお夜より昏い諸刃の剣。
‥‥彼女の目的はただ一つ。
「祖父に仇なす敵の殲滅を」
混乱きわまったサイバイオテック社の玄関を見下ろす高架をコルベットが走り抜けていく。
瞬間、いりすの姿は車上になかった。
さえぎるものもない空を疾った雷光を誰が見咎めえたか。着地した外壁をふたたび蹴り、
大地の呪縛から解き放たれた体躯はガラス張りの本社ビルにそって垂直に翔け昇っていた。
二度、三度、足がかりの触手を壁面に突き刺し、さらに加速する。
みるみる眼下のざわめきが遠のき、会長室のフロアが迫った。手がかりとてない宙空で腰
をひねり、急激に角度を変えて壁一面の強化ガラスに突入する。何をすべきかはシードが
おのずと教えてくれていた。
「躙――辱――撃!」
いくつかの連なった言語命令が、デバイスの内より破壊の衝動を呼び起こす。
空間がひずみ、裂けた。
万色にして無色の混沌が虚空にのぞき、そこから出現した擬装手が轟然と外壁を抉り穿つ。
衝撃、亀裂、破砕――さらに爆散。
弾け飛ぶガラス窓にいりすは頭から飛びこんだ。厚い絨毯上で一転し、すばやく身構える。
応接室をみたす濃厚な敵意がメイドを迎え撃っていた。
ぐったり床にへたりこんだ祖父に外傷はなかった。かたわらの2人のうち一人は見まがう
はずもない、遊牧民めいた長衣をまとい、カメラの前でPBT社を愚弄したフードの男だ。
足をふみだしかけ、ふと目を落とす。
――鴻神いりすの足元に、頭部を潰された女性の死体が一つ、転がっていた。
見覚えのある制服の胸元に小さなほくろをのぞかせて。手足を、奇妙に折りたたまれて。
断末魔の苦悶に、全身をねじれさせて。
「‥‥!!」
「ほほぅ‥‥空間にみなぎる意志の力。これが第3の敵か。面白い・・・――」
そして、色なき愉悦の声。
黒きメイドの中で、鴻神いりすの、最後の自制がふつりと切れた。


およそ5分前。
フードの男にうながされ、直通エレベーターから出た鴻神タウマスは受付のデスクに座る
無表情な男を目にした。彼もまた内部構造むき出しの改造G3を手に嵌めていた。
「久しぶりだな、タウマス」
「テロリストに知り合いはおらん」
そっけなく答えたタウマスに、く、くく、と男は喉奥で怪鳥めいた空気をもらした。
そのくせ、のっぺりと能面じみた顔には何の表情も浮かんでいない。
「ふふん、ご挨拶だなタウマス。俺とお前の仲じゃないか。思いだせんか?」
「そこにいた妃那君をどうしたのだ」
「クク、彼女は実に忠義高いボディガードだったよ‥‥死に顔を見たいか?」
「下種が」
とたん、タウマスの体を締め付けていた擬装手がギシリと絞り上げられた。うっと呻いた
タウマスは苦痛に息をつまらせる。
「下種がどちらか‥‥他人の屍にあぐらをかいて儲けている人間に言われたくはないが」
「‥‥なに?」
「ふん。この顔に、貴様は見覚えがあるだろう‥‥」
デスクから降り立った男が近づき、無機質な自分の顔に手をあてがう。

耳をふさぎたくなる音を立て、のっぺりした男の顔面は生皮もろとも剥がれおちた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

まぶたを失った、真円の瞳。
表情筋がむきだしになった、生ける標本の顔模型。
爛れきった歯茎をゆがめ、男は黙ったままニヤリと残虐で獰悪で醜魁な笑みをのぞかせた。
「瀬上カムイだと‥‥失踪中の、かっての技研の元主任が‥‥なぜ、お前が」
「ふふん、覚えていたか。10年前のあのG3起動実験から、この顔は毎夜疼いていた。
どういうわけか、何度皮膚移植しても2日と持たずに腐ってしまうのでな」
「恨まれるだけの理由は、あるだろうな‥‥」
「ク、クク。胸に問うがいい。罪の意識にかられたことが一度たりともないとは言わせん」
驚愕の瞳を見開くタウマスは、しかし、徐々に落ちつきを取りもどした。
「だが、今さらあらわれて、お前はこの上何を望むのだ」
「なに?」
「瀬上。お前に対する贖罪は、あの時もう充分すぎるほど行ったはずだ。この上何を望む」
「何を望む、だと?」
「金か。利権か。汚い企業テロの尖兵にまで成り下がって、お前は何を望むのだ」
「なめるなっ!!!」
怨恨、激怒、すべてが陰にこもった低い大喝。
タウマスを捕らえていたフードの男の触手が、あっけなく千切れていた。
瀬上カムイの手から滑りだした極太の擬装手がタウマスの頬を打ち、応接室の壁ぎわまで
吹き飛ばしたのだ。
「あの時、貴様が鴻神礼鈴を殺したんだ! 実の娘を、実験中に見殺しただろう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!!」
今や狂乱した瀬上カムイが、崩れ落ちたPBT社会長にのしかかっていた。
「変わらんか、分からんのか貴様は。金の亡者はどっちだ!」
「ま、マスター」
「ここで貴様を“傀儡”にしたところで、俺の怒りは癒えんぞ。貴様の心からの謝罪のみ、
心からの破滅のみが俺を癒すのだ‥‥分からんか。そうか。貴様もここで終わるか」
振りあげた擬装手の一本がぶくぶくっと膨れあがり、まるでハンマーのような形状になる。
だが。
「駄目ですマスター! あなたは無節操に殺しすぎです。これ以上は計画に齟齬をきたす」
「なん、だ、と‥‥」
タウマスを庇うようにフード姿の人影が立ちはだかった。
思いがけぬ弟子の造反に苛立ち、昏い瞳で瀬上カムイが詰めよっていく。
突如としてその動きが止まった。無意識に防御体勢をとり、2名の魔人が窓をふりむく。
「なんだ、この圧迫感‥‥景色が‥‥‥‥ないッ!?」
応接室の一面ガラス張りの壁は、海來区を見下す広大な摩天楼の絶景だ。
その光景が、消えていた。
パノラマはぐんにゃりと歪んで裂け、万色に猛るディラックの海が渺々と広がっていた。
かくも巨大なナル空間への顎を開くのはどのような力か。
無色の混沌から殺到した擬装手の嵐は、サランラップでも打ち抜くかのように80センチ
の特殊強化ガラスをメッタ刺しにしていた。窓が砕け、擬装手の防御結界にふりそそぐ。
つややかな黒い砲弾が飛びこんできた。
継ぎ目のない丸い外装がふわりとほつれて翼に戻り、広げられていた羽根がシュルシュル
折りたたまれ、踵にわだかまる闇に吸収されていった。
変化の後に残されたのは、膝を立てて、ゆっくり立ちあがる一人の少女のみ。
メイド服。奴隷の首輪。瞳を覆うは極薄のナイトバイザー。
唇を引き結んだその表情からでは、さすがの魔人たちにも彼女の思考が伺いしれない。
「ほほぅ‥‥」 
突然の闖入者に感嘆の声をあげたのは、仮面をつけなおした無表情の瀬上カムイだった。
「空間にみなぎる意志の力。これが第3の敵か。面白い」
「‥‥」
天使は答えない。足元を見やっている。
「どうやら貴様がアヴァンの警告した未知なる触手使いグラップル・フィーラーなのだろ‥‥」
「マスター、危ないッ・・・・・・・・・!!」
「滅――砕――吼」
天使が、呟いた。
3つの声は同時に重なり、不自然な協和を場にもたらした。
ドォンと一拍遅れで爆風が吹き抜けていく。
サイバイオテック社そのものを揺るがしつつ、実体化した咆哮がすべてを飲みこんで貫く。
メイドの手から放たれた触手こそはおそるべき一撃だった。
攻撃とさとった刹那、空気をかすませ超人めいた速度で二名の魔人は飛びのき――そして
それでも間に合わなかったのだから。
「こんな小娘が『バルデューク・スナッフ』を‥‥腕ごと‥‥消去されたのかッ‥‥!?」
「マスター!」
痛みをこらえる瀬上の声には、正真の驚きが含まれていた。
ボタボタッと滴り落ちる音。源泉は、ごっそり欠落した右肩のつけねからだった。
黒き天使の伸ばす左腕から噴出した極大の触手が、瀬上カムイの右腕を喰いちぎったのだ・・・・・・。
応接室の壁にクレーターをあけ、さらに廊下をはさむ向かいの部屋の壁をも貫通して‥‥
「‥‥」
ずるり、と天使が触手を引き戻す。
直径1メートルを超す長大な擬装手が、こともなく鴻神いりすのシードに吸い込まれた。
今の攻防で、天使と魔人の位置は入れ換わっていた。敵を睨みつけたフードの男は慌てて
窓ぎわでうずくまる師のもとに駆けより、ジェル状の擬装手をくりだして鮮血のふきだす
肩に手当を施していく。
「大丈夫ですか、マスター」
「ふん‥‥狙われたのが、まがいの腕の側で助かった、か。いい勘だった、アヴァン」
「指を鳴らす・・・・・のが遅れていたらアウトでした」
フードの男、アヴァンは壁の穴を指さした。破壊の断面さえなく、元々くりぬかれていた
ように滑らかな壁の傷を‥‥縁にひっかかり、壁と融和してしまった瀬上の義手の欠片を。
「面白い。実に興味深い。対峙してすぐ、躊躇なく殺しの技を使うとは」
「‥‥」
「それともまだ、この天使は覚醒めざめたばかりかな? ククク」
分析めいた瀬上カムイの言葉に、いりすは頬を上気させ、荒い息で答えた。
「許さない。お前ら犯罪者を、G3を悪に染めるモノを、私は断じて許さない」
「‥‥ふん、そうか。なるほど」
「?」
「不安定なハイパワーは新型機の恩恵か。シードとは、それほどの力を持つか」
鴻神いりすの瞳がナイトバイザーの奥で青くけぶる。一目でいりすのデバイスを最新鋭の
ものだと見破った男の眼力に、ただならぬものを感じたのだ。
油断なく身構えつつ、倒れている祖父を背にかばっていりすはじりじり距離をつめていく。
二対一だが、一人は片腕を失って重傷だ。彼女の側にも勝機はある‥‥
懐に抱いている起動前のシード二基を見やり、失った右肩のつけねを左手で押さえた瀬上
カムイは、血の気を失った顔を上げるとあっさり言った。
「撤退するぞ、アヴァン」
「!?」
「3基のうち2基奪取、目的は達した。さらばだ、 触手使い グラップル・フィーラー」
強風のふきこんでくる窓の外に向かって魔人たちが走りだす。
「おめおめ逃がすかっ!」
激情のままに、いりすは擬装手の群体を呼びだした。背後の空間を埋めつくす触手の海が
狂乱の怒涛と化してなだれ落ちていく。
「しかし、当たらない・・・・・・・・・」
走りながらアヴァンが長衣から手をつきだし、指を立ててパキンと骨音を奏でた。
怒号をあげ、擬装手の奔流が応接室につき立っていく。
床を打ち砕き、粉塵をまきあげ‥‥それらことごとくが彼らを交わして床に突き刺さった。
呆れんばかりの密度で空間を蹂躙しながら、触手はただ一撃さえかすりもしなかったのだ。
ありえない。これをただの偶然だと誰が呼ぼう。
「なっ」
「これが僕の能力だ。追っても無駄、君には追いつけない」
フードの奥で呟くアヴァンの五指には、指環めいた奇妙な拡張デバイスが嵌められていた。
指先のそれを奏でただけで、いりすの触手はおのずから外れたというのか――
天使の動揺をつき、二人の魔人は絨毯を踏みきっていた。破壊された壁から地上133階
の高みに身を躍らせていく。
追いかけようとしたその時、唐突に声を荒げたガードマンたちが扉からなだれこんできた。
ほっとして顔を上げ、そこで思いだす。自分が、メイド服をきた黒の天使であることを。
今のいりすは名乗ることを許されない。無名の存在なのだ。
だから‥‥
「タウマス会長を頼みます。すぐに救急車を」
「なっ、何を言ってるキサマ」
「動くな、逮捕す――」
人々が声を荒げた時、いりすはすでにその場にいなかった。
ひるがえるは鮮やかなるメイドのスカート。弧を描き、人の輪をすりぬけた従属の天使は
地上450メートルから無重力の世界にダイブしていた。あっと息をのむ人々の前で踵に
渦巻く擬装手が広がり、墨を流して現出した二枚の翼が大気をとらえる。
(いた‥‥!)
変成意識野とシード固有のESCアナライザーが、はるか下に消えていく敵を捉えていた。
高度差およそ100メートル。このまま重力を殺して滑空していては追いつけない。
やむをえず逃がすのか、リスクを冒して追うか‥‥
逡巡と決断は同時だった。
黒きメイドを支えていた両翼が鋭角に折りたたまれ、降下速度が急激にふくれあがった。
接触は一度、チャンスも一度。一撃でしとめるほかない。
立体交差する高架の谷間へ下降していくテロリストがみるみる迫った。どういう理屈か、
翼も広げず浮遊していた敵が顔を上げて何かを呟く。大気の唸りに阻まれ声は聞こえない
が、その瞳が冷たく輝いているのは見極められた。
接敵するただ一点を目指し、急速に世界のすべてが収束していく。
飛来する猛禽が嘴を開くがごとく、激突の瞬間、黒の天使が言語命令を解き放った。
「――發!」
簡にして潔、最速の言語命令ワードが大気の組成を、位相を書き換えていた。
爆発的に無数の触手が生え出ずる。自立誘導で敵を求め、絡みつけば強靭な粘液が対象を
無力化する触手の網だ。大気を震わせ、命ある蜘蛛の巣が二人の敵へ殺到する。
包みこまれた魔人が捕縛されるまさにそのきわ、パキンと冷ややかな骨音が鳴りひびく。
唐突に触手のすべてがコントロールを失った。
「!?」
ビル風に押し返され、絶対の捕縛網がいりすの躯にからみつき、その身を絞り上げていた。
驚愕。戦慄。おのが擬装手に手足を縛りあげられ、いりすは宙で失速した。
(ムダだといったはずだよ、僕は)
脳裏をかすめたのは嘲弄的な指向性のテレパス。
バランスを失い、もがくいりすを見つめてフードの奥で青年が笑った、気がした。
(次の邂逅を楽しみにしてるよ、黒の天使‥‥生きていたら、ね)
語りかけるテレパスが薄れ、姿さえも陽炎のように霞んで、彼らは虚空に溶けこんでいた。
無防備に落下する鴻神いりすの悲鳴が、テレパスとなって放たれる。
(‥‥‥‥‥‥助けて、智香!!)

悲鳴は届いていた。
いや、それ以前から、環状になった高架を周回していた真手須智香は、本社上空から落下
してくる人影を目敏く見定めていたのだ。
絡み合い、弾き飛ばされた一人の姿を、ずり落ちた真手須の眼鏡は正確にとらえていた。
上空から立体交差をかすめて落下してくる黒のメイドとコルベットの交差座標は、明らか
に彼女の走る道路のさらに右‥‥何もない、宙空だった。
「くっ」
異様なスキール音が甲高くとどろく。
突如として、昼下がりの高架は玉突き事故の現場と化した。
流れにあわせてゆるやかな右螺旋の周回路を走っていた真紅のコルベットが、何の前触れ
もなくアクセルを踏みこんで暴走したのだ。ギョッとして回避しかけた前車がバランスを
崩し、スリップして次々後続に追突されていく。
衝突音、わきおこるクラクション‥‥
すべての騒音を無視して一気に加速したコルベットは、急ハンドルを右に切って迷うこと
なく中央分離帯に乗り上げ、跳ね上がったその勢いで反対車線の車を足場に使い、高々と
側壁をジャンプしていた。
慣性のついた放物線の落下軌道に、華奢ないりすの躯が精確に落ちてくる――
「お嬢様ーーーっ!」
真手須智香の叫びが、空気をふるわせた。

真手須の声とスキール音は、いりすの耳に届いていた。
彼女のこと。執事のこと。伶奈の、西の、学校のこと。助けることができた祖父のこと。
そして、奪われたシードのこと。大事な記憶が彼女の脳裏を駆けめぐる。
(ここで終わるわけにはいかないっ‥‥)
確固たる意志がいりすの神経をかけ下り、今一度シードに流れこんで目も眩む光を放つ。
――呪縛が、解けた。
全身を束縛する粘着質の触手、そのすべてがコントロールを取り戻していた。
落下する眼前にコルベットの後部座席が入ってくる。
墜落の刹那、黒きメイドは全身全霊をかけ、ありったけの捕縛ネットを車内に叩きこんだ。
分厚く膨れ上がった擬装手のネットに、いりすの躯が激突する。
「ぐうっっ!」
苦鳴をあげ、しかし再びクレッセント・シードが光輝を放った。
放物線を描いたコルベットの落下先、運河の上を走りぬける湾岸道路に向けて。
「――泡爆!」
冷静な言語命令がシードを発動させる。
フロントノーズから路面に突っこんだコルベットは、いわく形容しがたい勢いでアスファ
ルトから湧き上がった巨大なアメーバに埋まり、軽々と受け止められていた。むくむくと
盛り上がった液状の泡が、車体の落下エネルギーをすべて吸収してしまったのだ。
威容の出現がすべての人々を慄然とさせる。
一度バウンドし、さらに車体を水平に立て直して着地したコルベットは平然と走りだした。
‥‥背後でわきおこった混乱のスキールノイズには背を向けて。


               ‥‥‥‥‥‥‥‥


「タウマス様のお怪我ですが、軽傷だと連絡が入ってきました。あと、伶奈様から何度か
ご連絡が入ってきておりましたが」
「よかった、お爺様‥‥それと伶奈はやっぱりね。で?」
「大層ご立腹です」
「‥‥でしょうねぇー。断りなしにドタキャンしちゃったものね、午後の予定」
ようやく助手席に腰を落ち着け、鴻神いりすは真手須智香の報告を受けていた。
「でも、あれだけ派手に戦闘して、あげくにカースタンドまで。絶対マズいわよね」
「大丈夫です」
やけにきっぱりと答える真手須智香を不審に思い、いりすはしげしげと彼女を見た。
「――ポッ」
「‥‥」
「‥‥」
「やっぱりマズいわ。ナンバープレート控えられたら終わりじゃない」
「な、流されたー」
「やかましい」
っていうか運転者がリアクション待ちで固まらないで欲しかった。
前を見ているのかと問いたい。問いつめたい。お前の目は耳のあたりについているのかと。
むしろ私がハンドル握りたいぐらいだ。
‥‥何を期待してか、爽やかをよそおった微笑まで浮かべちゃってるし。
「どうして大丈夫だって言い切れるの?あの渋滞だし、絶対誰か見ていたと思うのだけど」
「ご安心を、お嬢様」
真手須は極上の笑みをうかべた。
「すでにナンバープレートは取り外してございます」
「犯罪でしょっ!」
「良い子のみんなは真似しちゃダメだぞー。道交法違反だからねー」
「違反者第一号がなにを偽善者ぶるか」
「うぅ、真手須、お嬢さまのためにやったのに‥‥」
「責任転嫁もダメ。いけないことはいけないの。ついでにくねくねするな」
とはいえ、と状況を思い返し、いりすはふうっと息を吐く。
海來区周辺の交通網は麻痺しきっていた。何が理由なのかここら一帯の電子標識がすべて
狂い、でたらめな表示になってしまったのだ。状況から考えれば、警察のNNシステムも
シャットダウンしたと考えるべきだった。
「‥‥これも、敵の仕業?」
「ここまで大規模なハッキングとなると難しいところですが、不可能ではないでしょう」
「くっ。逃げられたようね」
悔しげに呟いた鴻神いりすは、けれど満足そうにシートに身を沈めた。
少なくとも彼女の乱入は敵を混乱させ、祖父の命を護ることにつながったのだ。
そう、ムダでは‥‥
なかった‥‥
「汗をかかれたでしょう、お嬢様。お屋敷に帰ったらこの後、どうされ――」
「帰れないわ」
平板な声で鴻神いりすは言った。
「迂闊だった。私たち、追跡つけけられているみたい」


              ‥‥‥‥‥‥‥‥


宵闇の迫る鳴神スタジアムは市の郊外にあり、緑あふれる植えこみと塀に囲まれた広場も
今の時期ひっそり静まりかえっていた。
その、暮色に染まった広場のスロープを、真紅のコルベットが昇っていく。
敷地に入り、スタジアムドームにそって右にハンドルを切り、突如としてそこで加速する。
間髪入れず漆黒の擬装手がドームの影に殺到していた。
人の気配さえない物陰で、壮絶な擬装手同士の打擲音がとどろく。
助手席から跳躍した人影は、軽やかに宙でとんぼを切り、ひたと片足で大地に降りたった。
無事に走りさったコルベットを見やり、その顔を前に戻してメイド姿の天使が呟く。
「そろそろ出てくるべきじゃないかしら。正体不明のあなた」
「‥‥」
吹きすさぶ剣戟の調べに、くすりと笑みがまじった。
「これはこれは。なかなかどうして、楽しく愉しく逆殺あそべそうですわ」
「!?」
思いがけず、その声は涼やかで可愛らしい少女のもの。
たじろぐ前でギィンと金属めいた音が軋み、操っていた擬装手があまさず断裁されたのを
いりすは知覚した。視覚で捉えきれない空間から、おぼろな敵が正体を現す。
一瞬、鴻神いりすの背をゾクリと原始的な畏怖が貫いた。

――死神。

鴻神いりすが黒の天使というなら、そう、さしずめ青の死神、とでも呼べようか。
すたすた歩みでた少女は10代前半と見まがう雰囲気だ。ツインテールを肩になびかせ、
やや離れぎみの吊りあがった瞳はいりすを射抜いている。
ダークブルーの長衣はいたる所革ベルトで締めつけられて平板な躯の輪郭にまとわりつき、
ほっそりした首にはチョーカー、踵に触れんばかりの裾からは靴底の厚いブーツがのぞく。
しかし‥‥
何より彼女の異様をきわだたせるのは、おのが身の丈よりも長い時の大鎌だった。重量は
どのくらいあろうか。無造作な柄の先で、色あせた曲刃が凶々しく残照を跳ねかえす。
静寂は、長く深かった。
言葉もなく、いりすは少女に魅入っていた。
市内とか、海來区の商業地域とか、人通りとか、彼女はこの姿でつけてきたのだろうか。
だとすれば‥‥これは、かなりの傑物だ。
「‥‥」
「‥‥」
「‥‥‥‥」
「‥‥その格好で、よく、来れたわね、ここまで」
「はい?」
冗談で終わりそうな問いかけに、少女は首をかしげた。
「私を、愚弄なさるおつもりですか」
「違う‥‥と思うけれど」
「矮小な自意識にとらわれ、己が身なりを規定するこそ笑止。私には私なりの美学があり
ますから」
「いや、そうじゃなくてあなたその‥‥お巡りさんとかに呼び止められたりしなかった?」
「全然。質疑応答は以上で終わりですか」
「‥‥」
「‥‥‥‥」
とん、と死神の鎌をつかみ、少女は軽々とふりあげ‥‥そして、身構えた。
柄の中ほどを握った右手を真上にかかげ。
反対の左手を足下に垂れて。
腰をかがめた少女の上で、水平を保った鎌が切っ先をこちらに向ける。
あらゆることが規格外だった。
冗談としか思えぬ構え、冗談としか思えぬ台詞。
しかし、軽々しく嗤うことのできない何かを、この小柄な少女は確実にほのめかしていた。
いりすもまた、左手のシードに手をあてがって構えを取る。
自然と台詞は尖り、詰問口調になっていた。
「あなた、何者? なぜ私をつけてくるの。さっきの連中の仲間なの」
「立て続けの質問ですね。名前を聞くにはまず名乗るが礼儀だと思いますが」
「背後からつけねらう連中に名のる名はないわね」
「これはこれは、してやられましたね。まったくの道理です」
いいでしょうと頷き、死神は一歩すすみでた。
わけもなく退きたい心を押さえ、鴻神いりすはいつでも擬装手を発動できるよう心の中で
準備しておく。
「司宮玄乃(つかさのみや くろの)‥‥もしくは、『疾 駆 単 騎クリムゾンアクセル』。いかようにも
お呼び下さいませ」
「‥‥」
「以後お見知りおきを、黒の天使」
公明正大、炯々煌々、傲岸不遜、威風堂々バーンと薄い胸を張って少女は名乗った。
「では、いきますよ。せいぜい麗しい輪舞曲を期待します」
「!」
ゆらりと長く伸びた影が動く。
煉瓦敷きの広場に、夕陽をうめつくすほどの触手の影が入り乱れた。
激突、交戦、繚乱。凄愴。
そして――


「まぁまぁでしたわ」
「くっ」
鴻神いりすのカラダは浮き上がっていた。
文字通り、掛け値なく指先からうなじの裏まで、ギシリギシリとねばっこい触手の緊縛を
施され、無力な祭壇の生贄さながら両手両足を広げた姿で宙吊りにされて。
ぐねぐねと淫蕩な雫をはき、メイドの衣装を汚しながら玄乃の触手が全身を這いまわる。
全身の性感をなぶられながら、下唇をかみしめていりすが吐き捨てる。
「これが‥‥あなたの『特性』だっていうの」
「まさか。言うなればこれは通常技ですわ。コマンド不要、ボタン一押し」
優雅にほほえみ、司宮玄乃がいりすをもてあそぶ。
「まぁ通常技のみで勝つも、ハンデ戦としては上々。小足でペチペチ削り倒し‥‥なんて
ところでしょうか。私の美意識的にはいささか精彩に欠けましたが」
「ふざけ‥‥る、な」
「?」
「必殺技とやら。出してみればいいじゃないの。私は‥‥まだ、負けてなんかいないわ」
言葉に応じていりすのシードが輝いた。
軽く目をみはり、玄乃は瞳をまたたかせる。
「まだ抵抗されるのですか。それもまた一興。では」
玄乃は指を一本立て、なんとも嫌な笑みをくすくすと口元でころがす。
「貴女のその思いあがりに敬意を表して、1フレームからお相手いたしましょう‥‥くす」
「‥‥!」
玄乃の吊りあがった目が、初めて、細く敵意にきらめいた。
「存分に、嬲りつくして差し上げます」


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