10月のサマーカクテル その2

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                 ― 07 ―

 ビクンと震えて口を開けた僕を、香椎先生は不思議そうに見つめた。首をかしげると、
長い黒髪がさらさら流れていく。清楚な白のワンピースが、しなやかな躯を包んでいた。
 仕事が大変だったのだろうか、やつれたような表情が僕の視線と絡みあう。
 やがて、意外にも彼女はうっすらと、形の良い唇に笑みを浮かべた。
「ふふ、ただいま―」
「‥‥おかえりなさい、先生」
 その微笑が、僕の呪縛を解いた。まだ混乱はしていたが椅子に戻って作業を再開する。
いつもと同じ穏やかな声が、ゆるやかに緊張を解きほぐすのだ。
「ちょっと嬉しかったわ。今、清水君がいるかな〜って考えてたの、私も」
「‥‥」
「清水君もおつかれさま。最近はとても熱心に取り組んでいるわね」
「いえ、まだまだ‥‥です」
「ふふっ、あなたらしい答えね」
 デッサンに陰影をつけていくなか、彼女の声がゆっくり美術室を回り、右側から左側へ
移っていき、消えた。一方で主線をなぞる指先に意識を集中しながら、もう片方では宙に
とぎれた声を探して、意識がさまよっている。
「清水君は、好きな人、いるの?」
 描いていたエスキースのラインが、グシャッとはみ出していた。
 暖かい女性の吐息が、耳の裏側をくすぐったのだ。
「鳴沢さんが、階段の下で寂しそうに美術室を見上げていたわ。なにか、聞かされた?」
「いっ、いえ、最初はほのめかすような感じで――彼女が、その、勝手に」
「そう」
 軽く硬直した僕の首に、そっと細い腕が巻きつけられた。大人の、女性の腕が。心臓の
音がはっきり聞こえる。一つ一つの鼓動が、痛いくらいにズキズキいいだす。香椎先生の
カラダは暖かく、揺れる黒髪とともにほのかな香りがただよう。
「どうしてなのかな。どうして、なんだろうね。清水君は、どう思う?」
 耳元に注ぎ込まれる声は、聞き取れないほどかすかで、なのにひどく甘美だった。
「人が、人を、好きになるってこと」


                 ― 08 ―

 放課後の美術室にただようのは、2人の微妙な息づかいだけだった。
「分からないの。こんな時に、どうして――って」
「こんな、時?」
「清水君の大人っぽさ‥‥いいな。この背中に寄りかかれる人は、幸せよね、きっと」
 問いにはこたえず、香椎先生は僕の背中から身をすりよせてきた。教師と生徒の危うい
課外授業。そんなゴシップめいた見出しが頭の奥でいやおうもなく踊ってしまう。
「先生、あの――」
 マズイですよ‥‥自分から注意しようと決意して振り向く。
 その唇が、瑞々しい感触に閉ざされていた。
 優しく細めた彼女の瞳と、視線がからみあう。かすめるようなほんの一瞬のキス。僕は
呆然として口元に手をやっていた。唇に残る感触はなまなましい。
 いつもの、甘く爽やかな匂いが鼻腔をくすぐってゆく。
「‥‥怒った? 今の、いやだった?」
 首をふると、不安げだった香椎先生は小さくほほえんだ。その顔が、かすかに曇る。
「清水君は、一目ぼれなんて信じる方?」
「よく分からない、ですけど」
「本当に、変よね。変かもしれないわ。こんな積極的なの、自分でも信じられないもの」
 言いながら、わずかに上気した顔を隠すように香椎先生はうなじをかきあげた。髪留め
のクリップを口に咥え、うつむき気味に乱れた髪を直していく。そのわきで、僕は困惑と
陶酔と緊張にとらわれていた。
「あの、今のは、その‥‥どういう、意味ですか」 
 顔を動かさず、瞳だけがちらりと僕を見つめる。たたえられた情感に、思わず息を呑む。
「今のは、ほんの――スキンシップ、かしら」

 彼女の声は、こんな近くにありながらひどく遠くに思えた。


                 ― 09 ―
 
 分からない。
 香椎先生は、なぜ、衝動的にあんなことをしたんだろう。
 ‥‥そして僕は、どう応じるべきだったんだろう。
 年上の教師からの、甘く、どこか哀しみをおびた誘惑。落ち着いた大人の物腰、インテ
レクチュアルな口調、そして、突発的なあのキス。届きそうなのに届かない奇妙な距離。
衝動にも似た感情だけが、体の中で跳ね回っている。
 僕は、いやおうなく香椎杜奈という女性に魅かれていった。
 どうしようもなく彼女のことを思い、何かにつけて目で追ったり、彼女を探してしまう
自分がいる。さほど恋愛ごとに興味を抱く方ではなかったはずなのに‥‥
 鳴沢の話を聞いたあの日以来、僕は、自分を制御できなくなっていた。
 教員室にいる時、香椎先生はいつも一人ぼっちのように思える。他の教師の態度が、ほ
んの少しよそよそしいように感じる。窓にもたれて校庭を見つめ、寂しそうな笑みを口元
に浮かべていたこともある。そうした姿を見るにつけ、僕の心はずきずきと逸った。
 あのときの先生のように、僕が背中から抱きしめてあげられたら――
 それができる性格でないのは分かりすぎていたが、それでも僕はしばしば、そんな幻想
にとらわれていた。夏の始まりがみせる、淡い陽炎のように。
 申しわけ程度の梅雨が晴れると、からりと暑い、夏休みのはじまりだ。
 そして、美術部の夏合宿も。

「香椎先生、ココにいたんですか」
 山間の夜気が、冷え冷えした丘の上に降りてくる。都会の炎天下からは想像もつかない
静かな世界。合宿先のロッジが見下ろせる丘の上に、香椎先生は座っていた。
 振り向いた瞳が揺らいでいるように映り、ドキリとして立ち止まる。部員のほとんどは
ロッジで騒いでいる。たまたま窓から人の姿をみつけて丘を登ってきたのは僕一人きり。
満天の夜空が、首をかしげてこちらを見やる彼女の瞳に反射している。
「ん。どうしたの、清水君? 私に用事?」
「‥‥その、少し寒くなってきたので、お迎えにあがりました」
(バカ、何言ってんだ俺‥‥) 
 格好をつけようととっさに出た言葉は、あまりにも恥ずかしいものだった。舌を噛んで
死んでしまいたいような気持ちにかられる。だが。
「ふふっ、素敵」
「え?」
「清水君が言うと意外に決まるのよね、そういう台詞が」
 誘われるまま、僕は彼女の隣に腰掛けた。淡く星明りに照らしだされた横顔を見つめる。
あの時と同じ、物憂げでどこか誘うような瞳の色。見つめあう距離が限りなくゼロになり、
吸い込まれてしまいそうな気分にさえなる。香椎先生となら、それでも――
「私ね‥‥たぶん、清水君と同じ気持ちだと思う」
「!?」
 僕の視線を縛ったまま、彼女はぽつりと囁きをこぼしていた。聞き間違いのない台詞。
一瞬で胸が高鳴り、瑞々しい唇に、ほっそりした肩のラインに意識が釘付けになる。
 肩を抱き寄せようとしたその時、香椎先生はポツリと呟いた。
「でもね――私、抑制の効いた、大人の男性が好きなの。クールで、冷静で、そんな人が」
「先生‥‥」 
 伸ばしかけた僕の右手は、彼女の背中で固まっていた。


                 ― 10 ―

「清水君には、そういう、本当の男性の強さを感じるわ」
「‥‥」
「あんな噂を聞いてなお慕ってくれる‥‥本当に、それだけで、私は涙が出るほど嬉しい。
だけど‥‥ううん、だからこそ、今は越えちゃいけない一線もあると、私は思うのよ」
 気のせいだろうか。光をはらんで震える彼女の瞳が、僕を見つめている。
 噂とは何なのか、かって鳴沢がほのめかした教師の評判の事なのか、僕に知る由はない。
切々と語る彼女の言葉は拒絶ではない。ただ直感的に、それだけは伝わってきた。
 けれど―― 
「だからね、きっと言葉に出さなくても、行動を起こさなくても、それだけで思いを伝え
られることはできるんじゃないかと思うの」
「‥‥はい」
 たぶん、僕も先生も同じ気持ちなのに‥‥
 それなのに、教師と生徒という立場の違いが、こんなにも分厚く壁を作っているのだ。
思いをこらえるかのような香椎先生の表情は、胸がチリチリ疼くほど切なくて――
 その時の僕には、彼女の引いた一線を踏み越えるだけの勇気がなかったのだ。
「ゴメンね、私には、まだ心が‥‥」
「もう、言わないで」
 思いきって腕を回し、香椎先生の腰を抱き寄せる。瞬間、濡れた瞳が見開かれたような
気がしたが、彼女は僕の力に逆らわなかった。もどかしさの中、互いに見つめあう。
 それだけでも、今は十分に、思えたから。

 夏休みが過ぎ、新学期に入り、季節が淡々とすぎてゆく。
 僕の生活リズムに、劇的な変化はあらわれなかった。放課後になれば美術室に向かい、
部長の小野さんに背を叩かれて部員たちの輪に混ざる。自分のあるべき居場所の心地よさ。
そして、口には出せなくとも、秘めた思いを共有できる相手がいることも。
 一人一人を見て回りながら、香椎先生が的確な講評をしていく。
「ん? ちょっと集中欠いているわ。もう少し、輪郭はシャープさを心がけて」
「はい」
 頷きつつ小さな身じろぎで体を押しつけると、香椎先生はかすかにめっと目で叱るのだ。
周囲に気づかれることのない、ささやかなスキンシップ。もう夏合宿からは一月近いが、
彼女との間にあれ以上の進展はない。それでも、先生との距離は縮まりつつある。
 少なくとも、僕はそう思っていた。
 
 9月最後の水曜日‥‥だったと思う。
 ようやく部活を終えたその日、玄関まで来たところで僕はクロッキー帖を忘れたのに気
づき、取りに戻った。長く、重苦しい残暑の日ざしが、廊下に濃い陰影をわだかまらせる。
「大丈夫ですよ、香椎先生。もう、特別教室棟には誰もいやしない」
 その声を耳にしたのは、美術室の間近まで来た時だった。


                 ― 11 ―

「だけど‥‥んんっ、木村先生、いけません」
「何を言っているんですか。ただでさえ、噂のせいで最近じゃ会うことさえままならない。
正直、いらだちすら感じますよ。俺はね」
「でも、こんな、ここでだけは‥‥美術室でなんて、やめて‥‥」
 声の片方は、体育講師の木村紀夫だった。厭味な体育会系で、僕の嫌いな講師の一人だ。
だが僕の体が震えたのは、甘くしのびやかなアルトの声が誰か分かってからだった。
「はぁーん」木村の声が揶揄に変わる。「件の、香椎先生のお気に入りの子のことですか」
「えっ」
 動揺したような香椎先生の声が不自然に切れ、衣擦れめいて激しく競り合う物音がする。
長い夕陽が、秋の帳を告げる日差しが、教室の曇りガラスに反射している。
 中に入っていくわけにはいかない。なぜだかそんな気がした。けれど、放っておけない。
逡巡し、周囲を見わたす僕の目に、足元にはまった通風用サッシが目についた。これなら
相手に気づかれず中を確認できる。けれど‥‥それは、良いことなのだろうか?
「よしてください、冗談は。香椎先生ともあろう女性が、生徒に恋を?」
 木村の声が剣呑な響きをおびる。
「ハッ。そのせいで、美術室ではイヤだと言うなら、さすがに俺も頭にくるなぁ」
「き、木村先生‥‥その‥‥」
 余りに心細そうな声が、宙に余韻を残して消える。
 すでに、好奇心は切羽つまった焦燥感に変わっていた。木村がなにを強要しているのか。
状況次第で踏みこむ覚悟さえ固め、僕はゆっくり床に腹ばい、サッシに顔を近づける。
「お、お願い、もっと優し‥‥く」
 最後に耳にしたのは、香椎先生の、女の人の、嘆願する声。
 床にはまった桟の向こうで、一対の男女は抱き合い、半開きの唇をしっかり重ねていた。



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